―弥生(3月)のことば―
『年ごとに 咲くや吉野の山桜 木を割りてみよ 花のありかを』
母が亡くなった25年前の桜の頃、遺品整理をしているとタンスの引出しの片隅に小さな桐箱を見つけた。中には私のへその緒が大切に納められていた。それを見て何とも言えぬ初めて味わう感慨に陥ってしまった。確かに幼い頃にも幾度となく目にしてはいたし、認識もしていたのであるが、(このへその緒は私なのだろうか、母なのだろうか?)と、母と私をつないでいた切り取られたヒモを見て不思議な気持ちになった。同時に「絆」の文字の示す意味はこのことなのかも知れないと合点がいった。たとえ断ち切られようとも厳然としたいのちのつながり。しかもそれは宇宙の始まりから一瞬も途絶えることのなかった営み。文字にしてしまえばそんなことだったのだろうが、知らず目頭が熱くなり、位牌の前にそっと置いた。 絆という言葉を耳にすると気持ちは伝わらぬわけでもないのだが、なにか違和感を覚える。それは恐らくその中に人為を感ずるからだろう。本来絆は人知の及ばぬもので、結ぶもほどくもままならぬもの。それを人が操ろうとするはもはや絆ではない。仏教でいうところの「縁」なのであるから。桜が咲くも散るも、菜の花の淡い黄色も、春風の柔らかさや厳しさも…、木を割っても、へその緒を切り刻んでも決して見当たらぬ。が、確実にある。絆とは、すべての縁を大切に生きることなのである。 |
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