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正光寺の鎮守菩薩、妙見さまの星祭りが今年も盛大に行われました。現在は1月末の日曜日に行っていますが、もともとの縁日は2月1日でしたので、昔から寒行や節分と相まって豆まきもにぎやかに繰り広げられていました。正光寺の赤鬼青鬼はなかなかリアルなので、私も子供のころは怖くて逃げ回っていた記憶があります。そんな鬼さん、子供たちを追いかけまわした挙句に最後は「福は内、鬼は外…」と、みんなから豆をぶつけられて「ごもっとも、ごもっとも…」と言って、泣きべそかきながら門の外に逃げて行ったのでした。なんとなく可哀そうな風景でもありました。さてさて鬼とはいったい何者なのでしょう。そして福とは一体なにを指しているのでしょう。
世の中には相反する二元的対立というものがあります。暑い寒い、右や左、昼と夜など私たちが存在する以前から成り立っているものがあります。それらは良い悪いという尺度は当てはまりません。ところが私たちが自分と自分以外のものとを区別し始めた時から憎い可愛い、損した得した、好き嫌いなどなど自分勝手な尺度を用い始めたために苦しみや迷いも生まれてしまいました。憎いとか損したとか嫌いとか都合の悪いことが「鬼」ではありません。可愛いとか得したとか自分にとって都合の良いことが「福」でもありません。それらの大元の身勝手な物差しこそが心に巣食う鬼であり、曖昧な物差しを必要としなくなったときが福よかな心になるのでしょう。でもその鬼も、身勝手でどうしようもない私たち自身も、案外あどけないものなのかも知れません。やはり腹の底から憎むべきものなど、本来無いのでしょうね。
正光寺のホームページもごらんください。 http://shokoji.net
こぼればなし(
2月15日はお釈迦さまのお亡くなりになられたご命日です。お釈迦さまの亡くなられたそのことを「涅槃に入られた」といいます。涅槃とは燃え盛るともしびが吹き消されたさまを示しています。
お釈迦さまのご修行は煩悩との戦いから始まりました。おもて面にも書きましたが、自分を認識することによって自分以外との間に差別が生まれ、憎い可愛い、欲しい要らないなどなど、その両辺で悩み苦しまなければなりません。しかしその元をたずねれば生と死、すなわち私たちの存在自体が原因となっていたことに気づきます。一般的にオギャーと産まれた瞬間に生が始まり(または受精の瞬間)、ウンといって死んでしまう瞬間に生が終わると考えられていますが、実は生物という乗り物に生命がたまたま乗っかっているだけで、いのちそのものに始まりも終わりもない、いのちは永遠であることが理解できれば生死への不安や執着が少しばかり薄らぐ気も致します。いま、生死への不安や執着と書きましたが、実は死への不安と生に対する執着なのでして、これまた生と死を分けて捉えてしまうのが私たちなのですね。私たちの体は見かけの上では何も変化しているようには見えないのですが、皮膚や肉体、内臓を組織している細胞レベルではこの瞬間にも生死を繰り返しているのです。生があるから死があり、死があるから生がある。どちらも必要不可欠で、生と死は常に表裏一体、生は死とともにあるわけです。
とは言うものの、現実的に存在し続ける限りは煩悩の苦しみは絶えず付きまといます。つまり生きることは苦しみそのものであるということ、そこをまず自覚しなくてはなりません。私たちの心で燃え盛る欲望や怒りをどうやったら鎮めることができるでしょう。 欲望や怒りはそのままで苦しいことと自覚できていないことも多くあります。ですからその苦しみを自覚しえなければ脱却もできません。煩悩の自覚はすなわち悟りへの必要条件でもあります。中途半端に時折悩む程度では脱却もままならず、中途半端を繰り返すことでしょう。真剣におのれの醜いところを見定めて、真剣に悩み苦しむことができればもうしめたもの。その煩悩の炎を消し去ることができさえすれば、心安らげるであろうこともほのかに見えてきます。苦悩と平安の選択、これも私たちの差別と欲望を利用した比較の上の消去法にほかなりません。でもそれで良いのです。それをひとつずつ積み重ねながら、いえ、消去しながらやがて心穏やかでいる自分に気づくのです。これが燃え盛る炎が鎮まった状態、涅槃に近づいた状態です。しかし自分と自分以外の差別を無くさない限り、まだまだ心の中には波のように次から次へと渇愛や怒りが打ち寄せてきます。お釈迦さまのお悟りはその自分と自分以外の垣根が無くなってひとつになった状態、生まれる以前の天地宇宙の営みのような心境に達せられた…、というより帰結されたのでありましょう。そしてさらに2月15日には80年の生涯を閉じられた瞬間、思考や感情を生み出す本体の存在すら消滅し、完全に炎が消し去られた「涅槃」に入られたのでした。
世間でも死者に対して「仏さんになった」と言われるのをよく耳にしますが、欲望や執着の根本原因の生存そのものが途絶えることによって苦悩から解放され、悟りを開かれた仏さまのような平安な状態がはからずも訪れることに由来しているのでしょう。死は究極の救いといわれる所以でもあります。
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