―葉月(8月)のことば―

『たしなみは (りょう)()()わせる すがたから』

 

「右とけ 左われぞと合わす手の 中にゆかしき 南無のひとこえ」という古歌があります。仏教では右手を清浄の手、左手を不浄の手と考えられています。東南アジアの国々の一部では今でも食事をする場合には右手を使ってお料理をつかみますし、トイレでお尻を洗うのは左手で直接行います。浄・不浄など本来は無いはずですが、概念として浄・不浄を区別しながら、浄は不浄を不浄は浄を相互に活かし合っているとも言えます。

私たちはオギャーと生まれた時にはみんな清浄無垢な仏さまのような心で生まれてきましたが、やがて我欲が芽生え、あれはイヤじゃこれはイヤじゃとわがままを言い始めます。その生まれながらの純粋な心を右手とし、わがままでどうしようもない心を左手として、その両手を合わせることによって本来の純粋な自分と現実のダメな自分とを鏡のようにいつも照らし合わせながら、生き方や在り方を調えるのが「合掌」なのです。また互いに挨拶をするときも合掌をして拝み合います。それは合掌して心を調えた純粋な自分と、合掌して心を調えた相手の美しい心を互いに拝み合うのが真の挨拶と考えられてきましたし、その通り今でも習慣化されているのです。また仏像のまわりを廻りながら祈るときも、清浄な右手を仏様に向けるために右回りで回るのです。いずれにしましてもこの合掌の姿は調えようとする心の表れですし、当然のことながらその姿はこの上ない美しさとなるのでありましょう。

正光寺のホームページもごらんください。 http://shokoji.net

『死後の世界はあると思われますか?』

 近ごろよく問われることです。近ごろですので、以前の皆さんは答えを承知していらっしゃったのか、私が老僧風になってきたためか、はたまた世間の人たちが真剣に生き始めたのか理屈っぽくなってきたためか…。

 実のところ誰に訊いても明確な答えは持ち合わせていません。「あると思う人にはある、無いと思う人にはない」というのが答えのような気がします。かく言う私も実体験がないために自信をもって「あります、ありません」とお答えできないのが申し訳ないところであります。お釈迦さまはこの点についてどのようにお答えになっておられるのでしょうか?

 

 お釈迦さまの弟子に、マールンクヤープトラがいました。彼は理論家であったようで、この宇宙は有限か、無限か? 霊魂と身体は同じものか否か? 死後の世界はあるか、ないか?といった哲学的な問題に頭を悩ましていたようです。そしてお釈迦さまのところに行き、これらの問題に答えてほしいと願い出るのです。そんなマールンクヤープトラに対して、お釈迦さまは「死んでからどうなるというような無駄なことは質問するな。」といわれました。『マールンクヤープトラよ、たとえば、ある男が毒矢で射られたとしよう。周囲の人達は医者を呼んで来て、その毒矢を抜いて手当てをしなければと心配するのだが、射られた本人は「誰がこの矢を射たのか?どんな階級に属している者が射たのか? この毒の種類は何か?・・・それらのことが解明されないうちは、この毒矢を抜いてはならない」と主張したらいったいどうなるだろうか。マールンクヤープトラよ、そなたはこの男をどう思うかね』「・・・・・・・?」「そなたの言っていることは、この男と同じなのだよ。そんなことを言っていると、やがて毒が回り、男は死んでしまうだろう。いま大事なことは、矢を抜いて手当てをすることだ。そなたにとっては、哲学的問題にとらわれることなく、仏道修行に専心することだ」 さらに、釈尊はこう示されます。「わたしによって説かれなかったことは、説かれなかったままに受持しなさい。また、わたしによって説かれたことは、説かれたままに受持しなさい」・・・と。 

 

 同感致します。過ぎ去ったことを悔やむことと、訪れるかどうかも分からぬ遠い未来を先取りして憂うことは愚かなことと仰るのでしょう。いつも申します「いま・ここ」こそを生きよと。しかし、それでも納得されない方も多くいらっしゃいます。「あるか、ないか」。もしも「無い」とするならば、それはそれで不安は生まないでしょう。「ある」とするならば、より美しく平安な死後の世界に転生したいと願うでしょう。そこで因果応報の因果律が生まれ、倫理や道徳が重んじられるようになったのです。また、後の世があると見なすことによって今生の苦しさから決別できるとか、来世に光を見出すなどの安心をもたらすこともあるでしょう。仏教を始めすべての宗教の目指すことは「救い」や「安心(あんじん)」でありますから、人はそれぞれにそれぞれの安心の道を探れば良いことなのかも知れません。お釈迦さまのお説法はいつでも「応病与薬」で、ひとりひとりの心の病に応じて適切に安心の薬を処方していらっしゃいました。先のマールンクヤープトラ以外の質問に対しては別のお諭しがあったのかも知れません。時には後の世があるのかないのか?とりとめなく想いを巡らすことも良いことと思います。ただし、不安になる必要はありません。真の目的は安心することにあるのです。



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