『
毎年お盆が来ると、この句を引っ張り出しています。お盆という字はお皿の上に分けると書きます。ちょうど上の絵のように一つのお皿のごちそうを仲良く分け合って食べるのがお盆のこころなのかも知れません。
今から2500年ほど昔、インドのお釈迦さまのお弟子さんの中に目連尊者という神通力の得意な人がいました。彼は今は亡き母親の様子を神通力を使って見ようとしました。当時は死後の世界を「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」という六つの迷いの世界に分け、お悟りを開いて仏さまになれなければ、この六道を生まれかわり死にかわりしてさまよい続けなければならないと言われていました。そして目連さんの見たものは、痩せ衰えて餓鬼道で飢餓に苦しむ母親の姿でした。愕然としながらも彼は神通力を使って母親のもとへ出向きました。差し出す水も食べ物も母親は口にすることもできず、神通力も通用しません。彼は急ぎお釈迦さまに事の次第を打ち明けました。すると「そなたの母は生前、お前を一人前に育て上げようと懸命に生きてきた。それは素晴らしいことであるが、同時に自分の子さえ良ければという我執・偏執に陥っていたとも言える。そして今、お前のとった行動は母親がしでかした過ちの繰り返しである。飢餓に苦しんでいるのはお前の母親だけではないのがお前の眼には見えないのか。よく見よ、この数知れぬ多くの迷える人々を。その中にあって、そなたの母一人だけが食べ物をほうばることができようか、できまい。7月15日を選んで、修行僧たちに山海の珍味を馳走し、餓鬼に供養すればすべての餓鬼道で苦しむ者たちは救われるであろう。」とお釈迦さまは説かれました。そしてその通り山の幸、里の幸、海の幸を施し、供養したところたちどころに救われ、踊り踊って喜こび合った、これが盆踊りのいわれだそうです。
『もう一人の母親』
浄土真宗の七高僧の一人で「往生要集」を著した源信(恵心僧都)とその母親との間にこんな物語があります。
源信こと幼名千菊丸は7歳の時父を失い、母の手一つで育てられました。幼少の頃より大変利発な子供で、その神童ぶりは人々の評判となり、ついに9歳の時「ぜひ僧侶になってもらいたい」と比叡山から使者がやってきました。彼の母はその出家の話に大いに悩みました。ここで子を手放せば、おそらく今生では二度と会えないであろうことが分かっていたからです。しかし、子の行く末を思う母なればこそ、ついに一大決心をして千菊丸を比叡山に送り出すことにしたのです。その別れは、我が身を引き裂かれるより苦しかったことでしょう。
こうして9歳にして比叡山に登った千菊丸は、13歳の時、名を源信と改め正式に仏門に入りました。源信のその素晴しい才能は仏道修行においても遺憾なく発揮され、仏門に入ってわずか2年後に村上天皇の御前で「称賛浄土教」というお経を講義されたのです。その講義の素晴しさに帝はいたく感激され、源信に数々の褒美の品と「僧都」という位を授けられました。源信は嬉しさの余り、郷里で一人暮らしている母に喜んでもらおうと、手紙と共にいただいた褒美の品を送りました。ところが、母親は源信の手紙をつぶさに読み終えた後、次のような歌を一首したため、褒美の品を源信のもとに送り返してしまいました。
『後の世を 渡す橋とぞ思いしに 世渡る僧と なるぞ悲しき』
意訳しますと、「あなたを出家させたのは、この世で苦しみ迷う人々に生きる喜びの灯をともし、仏さまの世界に渡してあげる橋の役目になってもらえると思ったからです。ところが、あなたは僧侶の位が上がった、褒美の品を頂いたと、我が身の自慢をしているだけではありませんか。それではただの世渡りの道と変わりません。そんな世渡りのためなら比叡の山で修行する必要はありません。この母はこの上もなく悲しみで一杯です」という内容の歌です。
もちろん源信の母も人の親です。しかも身を切る思いで手放した我が子です。そんなに立派になったと聞かされたら、心の底では涙が出るほど嬉しかったに違いありません。年端もいかぬ我が子が帝に褒められて、喜ばない親などいません。喜んで当たり前です。我が子の嬉しそうに喜ぶ姿を想像すれば、一言なりとも「よく頑張ったね」と、誉めてあげたかったはずです。しかし、もしここで我が子に「立派になりましたね。この母もこの上なく喜んでいます」と、言葉をかけてしまったならば、おそらく我が子は有頂天になって、自惚れの強い、他人を見下すような僧侶に成り下がってしまうであろうと思ったのでしょう。我が子の行く末を思えば思うほど、母は心を鬼にして、我が子の慢心を戒める歌を、涙と共に送らずにはおれなかったのです。そこには「どうか立派な僧侶になっておくれ。後の世を渡す橋になっておくれ」という、やるせない願いがあるだけなのです。この厳しい母の戒めは源信の心に深く刻み込まれました。
それから後、源信は比叡山でも最も奥深い横川というところに住まわれ、終生そこを離れることなく仏道修行に精進され、多くの仏弟子を育て、数々の書物を書き残されました。
源信さんのお母さんの素晴らしさは誰もがうなずくことでしょう。でもA面の目連さんのお母さんも私は同じくらい素晴らしいと思います。目連さんのお母さんは見返りを期待せず、無償の愛を目連に注ぎ切りました。見返りも期待せぬということは同時に地獄でも餓鬼道でもどこにでも参ります、わが子のためならば罰も受けます、と。そんな母親ならばたとえ餓鬼道に落ちても苦しみなど無いはずです。「私がこの愛を注がずして誰が注いでくれると言うのか。」そんな目連さんの母親の声が聞こえてきます。この二人の母親像が示すものこそが、昨今曖昧にしてしまった大切なもののひとつのような気がします。